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存在とナラティヴ

 

  

                   野中恭平



① 失われた『魔法の眼』


昔からその『魔法の眼』はとても大事なものとされました。そして、そういう『魔法の眼』をもっと見えるように育てていこうとする学問まであったのです。テツガクというのがそれです。----ところが、ここ四百年くらいの間に、このテツガクは少しずつダメになり、その結果、人々の『魔法の眼』はどんどん見えなくなってしまいました。

 どうしてこんなことになったのでしょう?

 それは、人々がある種のワナにはまったからです。

それがどんなワナだったか ----ちょっと遠回りになってしまいますが、まずそのワナのことからお話しします。

 そのワナの説明用に、小石を使います。(できればこの文を読んでいるあなたにも実際にやっていただけたらと思います)

 用意する小石は直径Ⅰcmぐらいのものが良いです。(手近に小石がなければペットボトルのキャップでも構いません。ただしこの場合、文字や商標などが見えないように、裏返しにした方が良いと思います) その小石を左のてのひらにのせて、じっと見つめてみて下さい。20秒ぐらいでいいです。--------。

 ちょっと唐突ですけれど、見つめた後のあなたに一つ質問します。

 「小石と、それを見つめているあなたとは、どういう関係があるのでしょう?」

 少し言い換えましょうか。同じ質問ですけれど。

 「小石は『見られているもの』です。あなたは『見ているもの』です。では----その両者の関係は、どうなっているのでしょう?」

その質問を念頭に、さらに60秒ぐらい見つめてみて下さい、結構長いですが------そのうち、視線を注いでいる目の前の小石が、大きく見えたり、ふるえたり、わけの分からない挙動をみせて、何だか、胃の奥のあたりが引き攣るような妙な気分になったりしないでしょうか?

 じつはこの、『一個の小石を前にして、自分と小石の関係を考える』ということが、さっき言った『ワナ』なのです。

 あっ------、決して僕はあなたを『ワナ』にかけようとしたわけじゃないのです。ちょっとだけこの『ワナ』に触れてみて欲しかっただけです。

 『一個の小石』というのは、『自分以外の世界全体』をあらわすものです。つまりこのワナは、『自分とは何か、そして世界全体とどう関わっているのか?』という、とても重要なことを考えるときにハマってしまうワナなのです。


②  テツガクの森

 

四百年来、テツガクをやる人たちは、この『一個の小石のワナ』から逃れようともがいて、狭いコトバの森──テツガクのコトバの木がぎっしりと生えている森──をさまよっていたのです。決してサボっていたんでも、イイカゲンだったのでもなく、本気で、イノチガケで、自分こそ真理を見つけてやるのだ、とこのワナと格闘してきたのです。

悪いことに、小石は『見える』のです。そして小石を見ている自分は『見えない』のです。だからどうしても見えている小石を信用したくなるのです。----でもほら、目を閉じてみて下さい。そうすると真っ暗になって、小石も見えなくなりますよね。そうなると今度は『暗闇の中にポツンといる自分』を信用したくなるでしょう?

 ----どうでしょう。どっちが信用できるのでしょう----。わかるわけ、ないですよね。

----だからこそ、悩んでしまうのです。

 このワナのことを『デカルトの呪い』と呼ぶ人もいます。

 なぜなら、デカルトという人が、この『一個の小石』の問題をもっと面倒にしてしまったからです。

 デカルトはこんなふうに言ったのです。

 『私は、この世のすべてものを「ないかも知れない」と疑うことができる。しかし、そう考えている自分自身の存在を疑うことはできない。すなわち、次のことが言える。「私は考える。だから私は存在する」』、まあこれは、とても有名な議論ですね。

 ぼんやり聞いていると、なかなか鋭い議論に聞こえます。しかし、これを『一個の小石』を使って言い換えると、『私は、目の前のこの小石など存在しない、と疑うことができる。けれど、その小石の存在を疑っている自分自身は、疑いなく存在している』という、まるでテーブル・マジックみたいな、せせこましい、ある種の詭弁だとわかると思います。

でも、デカルトのこの詭弁は、一気に世界に広がりました。おそらくデカルトの巧みな『この世のすべての物、あらゆる法則、もしくは関係、それら全部を疑える』、などという論調のせいでしょう。初めてこの詭弁に出会った人は、何だか自分がスーパーマンにでもなったような興奮を感じるみたいです。何しろ『世界の全部』を相手にして、それらを疑えるのですから。


③  近代合理主義

 

まあでも、そこにとどまれば大きな問題はなかったのです。せいぜい個人の趣味の範囲ですから。でもこの詭弁がどんどん広がって行って、時代を歪めてしまうことになったのです。すぐに分かることですけれど、「私は考える。だから私は存在する」という言葉に『他人』はいません。つまりこの言葉は『他者の精神の存在は疑わしい』と変換され、極めて利己主義的な世界観に人々を導きました。そして最終的には「自分の精神」さえ見失われて「この世界で確実なのは、物質の存在だけだ」とみなされることになってしまったのです。

それだけではありません。物質の存在だけが確実なことから、『死者』の心はゼロなのだと、死んだらすべては無だとみなされるようになったのです。

そのことで人々は、命の厚み、命の絆を失ってしまいました。こんなふうに命の絆を断ち切って、「自我のみあり」ひいては「自我とモノだけあり」さらには「モノのみあり」としてしまったのがデカルトの罪だと僕は思います。

 ご承知の通り、このデカルトの議論は、「近代合理主義」として近代の世界観の基礎となり、さまざまな災禍を地球上の生命にもたらしました。近代の闇のはじまりです。------巨大戦争。大量虐殺。核兵器の所有。平然と大量の家畜たちを殺して食べる習慣。環境破壊。人間だけ、自国だけの正義。さらにはAI兵器の発達。----これらのことは、デカルトの議論、さかのぼれば『一個の小石』の図式によって引き起こされた悲劇だと言えるのです。

 もう、お分かりと思います。古い時代の『魔法の眼』はこうして、忘れ去られてしまったのです。テツガクのことなど、もう誰も話さなくなってしまいました。


 では、この『一個の小石』の図式から、我々は抜け出せないのでしょうか。あきらめて近代合理主義の軍門に下り、「世界はモノだけでできている」と悟るしかないのでしょうか。

 二十世紀のフランスの思想家、ジャン・ポール・サルトルは、酒場で飲んでいるときに目の前のコップを指して、「このコップと私の関係を簡潔に説明する方法がほしいのだ」と語ったといいます。サルトルもまた、『一個の小石』の図式を──彼の場合は、一個のコップだったのですが──乗り越えようともがいていたのだと思います。


自分の話になって恐縮なのですが、僕自身もこの『一個の小石』の図式を何とか乗り越えようと、日々考え続けました。考えるだけでなく、カントを読み、ルソーを読み、ハイデガーを読みました。さらに身体と世界との関係を実感したくて、『飢え』とか『渇き』とか『不眠』などの実験もしてみました。けれど、「分かりそうで分からない」まま、十数年が過ぎてしまいました。

僕は自分がそんなに賢くない人間だと自覚していました。けれど同時にとてつもなく諦めが悪い人間だとの自覚もあったのです。だから、この「一個の小石」の図式を崩せなければ。僕自身は前進できないのだと、無い頭を絞って、さらに考え続けたのです。(もちろん当時は「ディズニー的な魔法の眼」などという便利なものを持ち合わせていなかったので、「古い魔法の眼」の範囲でがんばるしかありませんでした)


転機は突然やってきました。

ふと、「小石を二個にすればいいのだ」と思いついたのです。

その瞬間、僕の中に嬉しさが広がっていきました。正直に言います。それは僕のこれまでの人生の中で、最も嬉しい瞬間でした。

 ----ええと、『二個』だけじゃ、よく分らないですね。説明します。『二個』というのは、小石をもう一個増やすことです。----あたりまえですが。


④ 二個の小石


 では、小石を二個にします。左手の小石はそのままにして、もう一個、別のよく似た小石を見つけて、今度は右の手に持ってください。(ペットボトルのキャップを代用している人は、よく似た二つ目のキャップを捜して下さい)

 その二つの小石を、目の前に五センチぐらいの間隔をあけて掲げて並べて下さい。

 目からの距離は大体15センチぐらいです。


 ◎       ◎


こんな具合です。

並べたらそれぞれの目で、つまり左の石は左の眼で、右の石は右の眼で、眺めて見てください。

------そうすると立体写真と同じ原理で、二つの小石の真ん中に、新しい一個の小石が見えて来るでしょう。

 小石を二個にするとは、それまでの、『一個の小石と自分自身の関係を考える』というやりかた──それだとワナにはまります──をやめて、この『新しい小石』について考えてみるということです。新しい小石が見えてきたら、「これはなんだろう?」と考えてみて下さい。

新しく見えて来た小石は、『みえているけれど、モノではないもの』です。

つまり、『一個の小石』で考えていると、

 『一個の小石』と『自分自身』

という対立関係からどうしても抜け出せません。これがワナの中心部分なのです。つまり小石と自分がケンカしてしまうのです。でも、『新しい小石』で考えれば、

 『二個の小石』と『新しい小石』と『自分自身』

というふうに、モノの代表の『二個の小石』と、『自分自身』の間に、『新しい小石』が入って、ケンカの仲裁をしてくれるのです。

僕が「小石を二個にすればいい」ことに気付いて思わず歓喜の声を挙げたのは、このような「新しい小石」を見詰めることで、「一個の小石」の図式を超えられるのだ、と直感したからです。


 では『新しい小石』を見詰めることで、何が分かってくるのでしょう。

 『新しい小石』はまず、『見ている者』つまりあなたに向かって、「二個の小石というデータから私を生んだのは君だ」と、語りかけてくれます。そして次に、『二個の小石』に向かって、「君たちの存在がなければ私は存在しない」と、語るのです。

 これはどういうことなのでしょう。僕たちは『世界を見ている』と感じています。その『見ている世界』とは、実は『二個の小石』のような直接的なデータではなく、それらの直接的データを元に作られた『新しい小石』のような統合的なデータなのです。

 つまり僕たちは『新しい小石』のような、複数の情報が合わさってできた、統合的な映像を、『世界』として見て感じているのです。

その統合的映像は視覚だけにとどまらず、聴覚・触覚・臭覚・味覚などの情報も加わったものです。「小石を二つにする」とは、その総合的な映像を、直接的に把握できるようにすることなのです。



第二部 生活テレビ

① 歩いてみて考える


 もう一度、「新しい小石」に焦点を当ててみましょう。僕たちは直接『世界』をながめているのではなく、「新しい小石」に代表される統合的な映像をながめているのです。表にするとこんな具合です。

  二個の小石 (世界) 新しい小石(見えているもの)自分自身(自分の心)

こうして見ると、僕たちが、「新しい小石」(見えているもの)、つまり総合的映像を通して世界とかかわっている存在だということが分かると思います。

 ちょっとくどいですけれど重ねて説明しておきます。最初に両手に持ってもらった「二個の小石」が表しているものは、我々が感受する原初的データです。それがなければ、「新しい小石」は存在できません。そして「新しい小石」が表しているものは、原初的データから自分自身が作り上げた、統合的映像です。我々はその統合的映像を通じて世界と関わっているのです。つまり表を単純化して、こう表すこともできます。

  世界の状況 ←→ 統合的映像 ←→ 自分自身の心


 それでは『統合的映像』で世界を見ているとは、実際にどういうことなのでしょう。それには、具体的に行動している場合を観察する必要があります。ここでは分かりやすく、「散歩しているとき」の我々を例に取ってみましょう。

 ……散歩しながら、まず、「世界とは何か」を考えてみましょう。

歩いていると、風景が動きます。その動きは、常に「自分に向かってくる」動きです。その動きの中で考えていると、「世界とは、いま、絶えず自分に向かって動いている風景の全体である」ということが分かります。

次に「自分とは何か」を考えてみましょう。歩いていると、時々、動く風景の中に自分の脚や腕が見えることがあります。つまり、自分の身体も、「世界の一部」であり、それが一定のリズムで運動し続けているわけです。もちろん、「自分がまさに今、手を振り脚を動かして歩いている」ということは、ずっと自覚できています。

 このことから、「自分とは、風景の中を、今まさに歩いている、身体を持つもののことである」ということがはっきり分かります。

 その次に、「自分の心とは何か」考えてみます。

 「自分に向かって風景が動き続けている。自分はその、動く世界の中にいる 」「自分は、身体を持ち、それがまさに今、歩いている 」

 そんなことを考えながら歩き続けます。そうすると、次のことに気がつくはずです。「自分の心とは、自分に向かってくる風景を見ながら、いろいろなことを感じ、考え、判断しているもののことである」

もちろん、歩く人、歩く場所によって、見えてくる風景は変わります。けれども、歩いて考えさえすれば、これまでの3つの結論、

「自分は風景の中を歩いている(世界の確認)」「自分は身体を持っている(身体の確認)」「自分は感じたり考えたりしている(心の確認)」は、ごく自然に分かると思います。すなわち、じっと座っているときより、歩いているときの方が、

  世界の状況 ←→ 統合的映像(身体が作っている) ←→ 自分自身の心

という基本的な関係を鮮明に確認できるのです。

 では今度は、歩きながら、見えている風景について考えてみましょう。

じっくり風景を見ていると、見ているものが、風景そのものでなく、「歩きやすいように、自分の身体が作り出した総合映像」なのだ、ということがわかってきます。

 僕は、この行動・活動に関わる統合的映像を、「生活テレビ映像」と呼ぶことにしました。この映像の性質をもう少し確認してみましょう。

 まず、立ち止まって、片目を閉じ、じっと一点を眺めてみます。見えてくる風景は、遠近感(立体感)に欠けています。次に、片目を閉じたまま、歩き始めてみましょう。風景は、すぐに遠近感を持ちはじめます。これは、「歩く」ことで目が捉える映像がわずかに変化し(近くのものは大きく動き、遠くのものは少ししか動きません)その時間的変化をもとに、「生活テレビ」が、自動的に、遠近のある映像を映し出していることを示しているのです。もしも、我々が、「生活テレビ」でなく、直接目で捉えた映像を見ているのだとしたら、立ち止まっている時と、歩き始めた時の映像の性質は、変わらないはずです。つまり「生活テレビ映像」には時間的な変容も加味した統合的な映像が映っているというわけです。


② 生活テレビとカント、フッサール


 「生活テレビ映像の見え方」とは、僕たちにとっての「世界の見え方」にほかなりません。そしてその生活テレビ映像は、「その活動を継続しやすいようにできている映像」と考えられます。

 このことは、「生活テレビには切り替えスイッチがある」と解釈すると理解しやすいでしょう。人間はテレビのチャンネルをかえるのと同じように、それぞれの活動をやりやすいようにチャンネルを選択しているのです。

 たとえば『散歩チャンネル』は散歩をしている時に選ばれます。このチャンネルでは道を踏み外さないように道路の周囲をくっきりと映し出します。『ドライブ・チャンネル』は車の運転をしている時に選ばれます。道路標識などがしっかり映るチャンネルです。ほかには、『スポーツ・チャンネル』や『読書チャンネル』『お食事チャンネル』などがあります。

 以上から、生活テレビ映像についてこんなふうに考えることができます。

「我々は、生活テレビ映像で世界を捉えている」

「生活テレビ映像の見え方は、活動によって変化する」

「生活テレビ映像は、その活動を継続しやすいような映像である」

「人間はテレビのチャンネルをかえるのと同じように、それぞれの活動にふさわしいチャンネルを選択している」

「心は、身体が作る『生活テレビ映像』を介して世界と関わっている」


これを図示すると、このようになります。

 世界 ⇔ 生活テレビ映像 生活テレビ映像を見る自分自身の心


 このような「生活テレビ」のアイデアは、もちろん僕のオリジナルではありません。「散歩する哲学者」イマヌエル・カントが、その壮大な分析哲学の前提にしたのは、この「生活テレビ」のような感覚でした。けれどもカントは20世紀のフランスの作家、アルベール・カミュが批判した通り、生身の人間が直面する「どう生きたらいいのか」について、答えることはありませんでした。カントはあまりにも「学者」だったのです。

 また、さらに下って、現代認識論の祖と言われる、エドムント・フッサールが晩年に提唱した「生活世界」は「生活テレビ」とほとんど同じものです。フッサールはしかし「生活世界」から実際の日常への展開に失敗しており、また、実はフッサール自身がデカルト的自我のイメージから──近代合理主義的感覚から──抜け出しきっていないという批判もされています。その意味ではカントよりも後退しているのかも知れません。

 

③ 近代合理主義の否定


 ------ここで改めて、近代合理主義を否定しておくことにします。

 最初に思い出して欲しいのは、「一個の小石と対峙すること」が、結局僕たちを近代合理主義の罠に誘い込んでしまった、ということです。僕はそれに対して、「石を二個にすること」で解決できないかと考え、

   二個の小石 ←→ 新しい小石 ←→ 自分自身

という構図に至りました。そしてこの構図をさらに検討して、次のように整えました。

   世界生活テレビ映像それを見る自分自身の心

この「生活テレビ」の世界観は『生活テレビを「見ているもの」こそが、僕たちの「心」であり、それは疑いなく存在する』というものです。人間の心は「生活テレビを見ているもの」という仕方で存在しているのです。これがわかれば、近代合理主義の論理、「私は全世界を疑える、しかしその疑っている自分の存在は疑えない。だから私は存在する」という論理がいかに乱暴でいい加減なものか分かると思います。(デカルトの同時代人パスカルは、「厳密で不要なデカルト」と論難したと伝えられていますが、僕は「乱暴で不要なデカルト」と言い直しておきたいと思います)

なお、「生活テレビのチャンネル」の考え方を使えば、デカルトの理論は、じっと動かずにいろんなものを疑う「懐疑・チャンネル」に入り込んだ結果、できあがってしまった妄想、と断定できます。

ただし、デカルトの命題は個人の存在のアイデンティティとして深く現代人にくい込んでいて、自己意識そのものになっている場合も多いのです。要するにデカルトの呪文に「呪われて」いるわけです。その場合には、少し元に戻って、「新しい小石」について考えてみて下さい。やってみましょう。

------デカルトによれば、「私はすべてを疑える」らしいのですが、目の前にある「新しい小石」を疑えるでしょうか。……その「新しい小石」は、まぎれもなく、つまり疑いようもなく、「存在しない」ものです。けれど確かに厳然として目の前に見えているのです。そう、僕たちは「ある」ものは「ない」と疑えても、「ない」ものは疑えないのです。そして、疑えないものがある以上、「すべてを疑える」とする近代合理主義は無効なのです。


 『こんなことで自分の「近代合理主義」が崩されてたまるか』といまだに感じている人も居ると思います。そういう人はVRゲームのいくつかで、ちょっと遊んでみて下さい。VR空間で戯れていると、そのうちそれがまぎれもない現実なのだと感じるようになります。VRゲームはたくさんあります。その一つ一つを「現実」と捉えるあなたがいるわけです。そのすべてを「ないもの」と考えるのはあなたの自由ですけれど、ゲームを楽しんでいたのもあなたです。つまりVRゲームをやっているあなたは「世界を疑う」というやりかたで「存在」しているのではなく、「ここはどんな世界だ」と問い続けるやりかたで「存在」しているのです。


④ 「心」の次元 


さて、何とか「近代合理主義」を否定してみたのですが、どうでしょう、すごく居心地の悪い気分になっていないでしょうか。僕自身がそうでした。僕たちは小学校入学以来、「合理的」にものを考えるように訓練されて来ています。それをいきなり否定されて、気分がいいはずはありません。でも安心してください。僕は確かに「近代合理主義」は間違っていると思いますが、それは簡単に言えば「近代合理主義」の「こころ」の扱いが間違っている、という意味で、すべての合理的な考え方が間違っているということではありません。見出さなければならないのは「こころ」のあり方なのです。

だから、ちょっとだけ歯をくいしばって「合理主義」の枠を外して、まず、僕たちの「こころ」がどこにあるのか、見当をつけましょう。

 何度も出てきた表を見直してみます。

世界の情景 ⇔ 生活テレビ映像 ⇔ 自分の心

(補足しておくと、生活テレビ映像が「見えているもの」であり、自分の心が、「見ているもの」に当たります)


この表について、ディメンション、つまり「次元」について考えてみることにします。そんな面倒なことを、という人もいるでしょうが、これをやれば「心」が僕たちにどうして見えにくいのかはっきりしますので、まあちょっとお付き合いください。

まず、世界の情景は立体的なものですから、「三次元以上」の情報と考えていいでしょう。(「三次元以上」としたのは、世界の実際の次元は僕たちの生活テレビには映らないからです)、次に生活テレビの映像は、時間的な変化も入っているわけですから、それより一つ高い「四次元以上」の情報と言えます。

ではこの四次元以上の情報を認識する「心」は何次元の存在なのでしょうか?、なんか数学パズルみたいな感じになってきましたが、この答えは「五次元以上」です。

これは少し考えて見ればわかると思います。たとえば動きのないテレビの画面のような二次元の画面があるとして、その画面を「見る」ためにはその画面の外、つまり三次元以上の場所に居ないといけないのです。(目玉がテレビ画面に貼りついていては、テレビを見ることはできません)、つまりN次元のものを認識するためにはN+1次元以上の場所に居ないといけないのです。ここから、「生活テレビ映像」が四次元もしくはそれ以上の情報ですので、それを認識できる「心」は五次元以上の場所に居ることが分かります。

まとめてみます。

世界 ⇔ 生活テレビ映像 ⇔ 自分の心

次元を示すと、「世界」は三次元以上、「生活テレビ映像」は四次元以上、「自分の心」は五次元以上になります。

           

こんなふうになっています。僕たちに見えているのは「生活テレビ映像」だけなので、五次元以上にある「心」が見えないのは、当たり前ということになるわけです。

 もう一つ追加しておくと、このように世界全体を捉えれば、「心」が世界の情景と大きく隔たった場所にいることから、「死とは何もないもの」という見方は間違いだということが分かります。「心」が生活テレビ映像に映らないのと同様、「死後の心」も我々には確認しようがないし、また、それが「ない」とは決して言えないと分かるのです。


 なお、「心」が四次元以上の領域にあることは、ヴィクトール・E・フランクル(ナチス収容所体験を描いた『夜と霧』の著者)の「次元人類学」でも提起されていますし、スミシーズの多次元空間論、R・スペリー(「融合する心と脳」の著者)の、脳構造理論、R・シュタイナー(シュタイナー教育法で知られる)の「人智学」などでも述べられています。


⑤ 古いタイプの『魔法の眼』の限界

 

最初に話した『魔法の眼』について思い出してみて下さい。『魔法の眼』というのは、誰でも持っていて、人の心を感じたり、人間の生きていく意味をイメージしたり、未来を予測できたりする、そんな『眼』のことでした。

 その『魔法の眼』を取り戻すために、まず「近代合理主義」を否定しましたし、「心」が五次元以上にあることも説明したのですが、それからその後はどうしたらいいのでしょうか。「近代合理主義」は「合理的なものは正しい」という思考で「近代」の判断をそれなりに支えて来ました。ではその判断基準をなくしてしまって、これから先は何を基準にしていけばいいのでしょう。

もちろん「心」をその基準にすべきです。けれども、

 世界・三次元以上》 ⇔《生活テレビ・四次元以上》 ⇔《心・五次元以上》

という構図をどれだけ見つめていても、「心」については何も見えて来ません。つまり『魔法の眼』の視界は広がらないのです。これは古いタイプの『魔法の眼』の限界なのではないかと思います。



第三部  「物語」とディズニー



 ええと-----これまで結構メンドクサイ議論を重ねて来ましたけれど、ここからは、少しは楽をしてもらえると思います。なんと言っても、ディズニーが話題の中心になりますから。


 これまでの第一、二部で行ってきたのは、古いタイプの『魔法の眼』、つまり旧来のテツガクの流れの中で『近代合理主義』を否定し、新たな展望を開いていこうというものでした。

この近代合理主義を否定することについては、これまでの第一、二部で或る程度成功したと思いますが、その先、つまり「それじゃあ、人間はどう進んで行けばいいのさ」と言う所については全く無力でした。おそらく古いタイプの『魔法の眼』の限界がそのあたりにあるせいなのでしょう。

 この限界を打ち破り新しい世界を見せてくれるのが、「ディズニー的な魔法の眼」です。メガネのレンズを取り替えるように、旧来の「古いタイプの魔法の眼」を、「ディズニー的な魔法の眼」に取り替えれば、「近代」の次の時代が見えてくるのです。


では、そんな大切な「ディズニー的な魔法の眼」、を獲得するにはどうしたらいいのでしょうか------難しくないのです。ディズニーを楽しめばいいのです。「ディズニー的な魔法の眼」は、教えてもらったり、何かを読んだりするのではなく、実際に自分でディズニーが創ったものを楽しみ、味わうことで獲得できるからです。


② ディズニーとの出会い


 では実際にディズニーを楽しむとはどういうことか、僕自身の場合を例に話をさせてもらいます。

ちょっとしたきっかけでディズニーランドに来るようになってから、僕は「人はなぜ、ディズニー・パークに来ると心が元気になるのだろう」、「どうしてこんなにたくさんの人々がディズニー・パークにやって来るのだろう」、などと考え始めました。

ディズニーに来るようになって5回目ぐらいからでしょうか。パークに入るとなんだかドキドキするようになりました。「空気が柔らかくなる」のです。エントランスからゲートを抜けてパークに入る瞬間、それまでとは全く違う、柔らかな気配に全身が包まれるのです。------そのことに気がついたとき、僕はすごく感動しました。そして、あっ、これでディズニーから一生離れられなくなった、と思いました。そして------気が付いたら泣いていました。そうか、僕は、ここに来て、癒されていいんだ、ここに来て幸福になっていいんだ、と。

 それからしばらくは、「楽しむこと」に専念することにしました。それは例えば、近くにおいしいラーメン屋さんができたとして、そこで実際に何度も食べて味わってみないと、そのラーメンのおいしさについて、ちゃんと語れないのと同じことです。僕は慌てずに、何度もディズニー・パークに足を運び、ただひたすら、ディズニー・パークが与えてくれる感動に浸ることにしました。

 まあ、とにかく楽しかったです。ウエスタンリバー鉄道に乗って、歩いている人々に手を振る、それだけで何か訳の分からない嬉しさが広がって来ました。アメリカン・ウォーターフロントの33番ドックで、ホワイトチョコレート味のポップコーンを齧りながらビールを飲んでいると、潮風がゆるく吹いてきて、何とも言えない、いい気分になりました。

ディズニー・パークには、「心を元気にする」「人々を集める」「空気を一変させる」という力があります。僕はディズニーを楽しみながら何年も、ぼんやり考え続けました。そしてだんだん、その力の源泉が、ディズニーの「物語」にあるのではないか、と思うようになりました。

 ディズニー・パークに来る人々は、別にそこでお金もうけしようとしているわけではないのです。アトラクションでもショーでもパレードでも街並でも、それぞれに「ディズニーの物語」を感じ、楽しみに来ているのです。ディズニー・パークの中は、「ディズニーの物語」の気配で満たされています。(もうお分かりと思いますが、僕が「物語」と呼ぶのは、「物語」そのものだけではなく、「物語的なもの」「物語の気配」など、すべてのことです)

 ディズニーの世界が「物語」で満たされていると考えるようになってから、僕は世界の見方が変わりました。「物語」というのは、根底の所で人を、生命を支えているのではないか、そんなふうに思うようになったのです。そして「物語の力」によって人々が幸福になるとしたら、「物語」を軸に世界を変えて行けば、きっと未来の社会は幸福に満ちたものになるに違いない、などとも思うようになったのです、



 この、「物語の力」を感じることが、「ディズニー的な魔法の眼」を獲得することに繋がると僕は思っています。今度はその、ディズニーの物語の力を、個人的な視点からではなく、もう少し一般的に見てみましょう

1901年にアメリカで生まれたウォルト・ディズニーは多くの映画を作り、成功を収めたのち、それらの映画の世界をそのまま楽しむための施設、ディズニーランドをオープンしました。1955年7月17日のことです。「夢の場所」が開かれ、「ファンタジーの変革」が始まったのです。ディズニーランドには人々が百万単位で押し寄せ、それはそのまま大きな社会現象となりました。

それでは、ウォルト・ディズニーの行ったのは、どんなことだったのでしょうか。

------彼が行ったのは「心」と「物語」を結びつけることでした。

 それがどうやってなされたのか、見て行きましょう。

ウォルト・ディズニーはそれまでに多くの「物語」を制作していました。「ミッキーマウス・シリーズ」「白雪姫」「ピノキオ」「ダンボ」「ピーターパン」などを始めとする劇場用映画です。彼はそれらの映画の「物語」に沿って、現実の世界を、つまり現実のパークを設計し、制作していったのです。

ディズニー・パークでは、それまでのウォルト・ディズニーが作ったたくさんの「物語」がもとになってパークでの「現実」が作られているのです。ゲストはパークの中の「現実」からかんたんに「物語」を感じることができ、それを楽しむことができます。パークはたくさんの「物語」で満たされています。それによって心が安らぎ、人々は豊かな気持ちになれるのです。

 では、そのようなパークで「こころ」が落ち着き、活性化する。これはどういうことなのでしょうか。ディズニーの本質はどこにあるのか、できればディズニー・パークに行って、ゆったり過ごしながら考えて見るといいと思います。


 とりあえず東京ディズニーランドに行ってみることにしましょう。朝早くK線のM駅で降りると、ホームから、もうディズニーランドが見えてきます。手前右手には白と青の大きなディズニーランドホテル、そして正面奥にはディズニーランドのワールドバザールの薄緑色の入り口が見えています。耳には駅のスピーカーから、心地よいディズニー音楽が聞こえてきます。

 駅から出ると幅の広い橋があって、そこを右に行きます。左はイクスピアリという施設で、それなりに楽しいのですが、朝はやはりディズニーランドに早く行く方がいいでしょう。駅のホームで聞こえていたのとはまた違うディズニーの曲が聞こえてきて、いよいよこれからディズニーランドにいけるんだという気分がどんどん膨らんで来ます。橋に隣接して楕円形の建物があり、そこが大きな土産売り場、「ボン・ヴォヤージュ」です。その横を抜けてディズニーランドに入るのです。

 入り口のゲートを抜けるとすぐ、空気が一変するのを感じます。一気に「ディズニーランド気分」になるのです。またここに帰ってこられた、という嬉しさが込み上げます。花壇の前でチップとデールが並んで手を振っています。キャストさんたちもそれぞれの制服に身を包み、満面の笑顔で手を振ってくれています。ただいま、ただいま。

 自然に自分の「心」がおだやかになり、それでいて嬉しさで足取りが軽くなっています。まずシンデレラ城に行こう、そこでウォルトとミッキーにあいさつして、それからどうしよう。ダンボに乗って思い切りディズニーランドの空気を吸い込もうか。それともウエスタンリバー鉄道に乗って西部の物語を楽しもうか。

 ディズニー・パークで目に入ってくるものは、すべてディズニーの「物語」です。それらを感じ、味わうことで、僕たちの「こころ」は落ち着き、活性化されます。-------そう、この時点で僕たちはもう、「ディズニー的な魔法の眼」で世界を眺めはじめているのです。


④ 「ディズニー的な魔法の眼」による、近代合理主義の否定


 では、とりあえずこの「ディズニー的な魔法の眼」で、近代合理主義を否定しておきましょう。近代合理主義は今の時代、つまり「近代」を作って来た基盤となる思想で、人間の歴史が「近代」に留まり続けている元凶でもあるものです。これを否定することは第一、二部でもやったことなのですが、「ディズニー的な魔法の眼」を使えばずっと簡単にできます。


 近代合理主義は、「自分さえよければよい」「世の中で大切なものはお金だ」「人間に心があるかどうかは分からない」「世界はモノだけでできている」という四つの大きな偏見に基づいています。これを順に「ディズニー的な魔法の眼」で壊していきましょう。


 まず、「自分さえよければよい」という偏見がおかしいことは明らかです。ディズニー・パークに来て、何が一番楽しいかと言うと、同じゲストの人々が喜んでいるのを見ることです。エントランスからゲートをくぐったとたん、ゲストの人々は笑顔になります。「みんなが楽しんでいるから、自分も楽しい」のです。自分だけが楽しいからいい、なんて、絶対ありえないです。

 次に「世の中で大切なものはお金だ」という偏見は、ディズニーに来る人なら、誰も持っていないでしょう。お金を増やすためにディズニーに来る人なんて、いないですから。もちろん、今の所、お金がなくてはディズニー・パークには入れません。でもディズニーよりお金が大切、という人はディズニー・ファンにはいないでしょう。

 その次の「人間に心があるかどうかは分からない」という偏見については、「ディズニーで物語を楽しんでいるのは何?」と考えてみれば簡単に壊せます。また、当たり前ですけれど、非常に多くの人々がディズニーの「物語」を楽しもうと集まるのですから、それらの人々全員に「心」があることも、簡単に分かります。

 最後の、「世界はモノだけでできている」という偏見は、表面的には簡単に壊せます。「人々はディズニー・パークにモノを楽しむのではなく、物語を楽しみに来ている」と言ってしまえばいいからです。「物語」は明らかに「モノ」ではありませんから。けれどこの偏見の根は深く、これを根底から壊すためには、「ディズニー的な魔法の眼」をさらに磨く必要があるでしょう。



第四節 「ディズニー的な魔法の眼」と「物語」


① 「物語」の位置づけと「モノガタリ」


 「ディズニー的な魔法の眼」をしっかり獲得するためには、「物語」をきちんと意識しないとダメです。しかし、「物語」というコトバは、あまりにも意味が広いので、分かりやすくするために、ここで「物語」の抽象的なものをカタカナで「モノガタリ」と呼ぶことにします。つまり、「モノガタリ」は「物語的なもの」「物語の気配」も含んだある意味、新しい概念を示します。

では「モノガタリ」はどんなふうに我々と関わってくるのでしょう。

 まず、ディズニー・パークでの関わりから見て行きましょう。

 ディズニー・パークに居ると、まわりはディズニーの「モノガタリ」だらけで、居ながらにしてディズニーの世界に浸れ、心が落ち着きます。ディズニー・パークの風景を見ているとそのままディズニーの「モノガタリ」を感じることができるからです。

でも少し冷静になって考えれば、ディズニー・パークの風景そのものが「心」に入って来るわけではないことが分かると思います。ゲストの人たちは、パークの風景から自分で「ディズニーのモノガタリ」の映像を作り直し、それを見ているのです。つまりディズニーの感動は、作られたパークとそこから「ディズニーのモノガタリ」の映像を感じ取るゲストの人たちの、協同作業によってできているのです。

 たとえば、あなたがトゥーンタウンのミッキーの家の前に立っているとしましょう。(もちろん人によってさまざまでしょうが)、その時のあなたの「心」には、ミッキーの踊る姿や笑っている姿、握手をしに近寄って来る姿が映っているでしょう。つまりあなたの「心」はパークの風景そのものを見ているわけではなく、「ディズニーのモノガタリを映し出すテレビ」のようなものを見ていると考えられます。このテレビのようなものを「モノガタリTV」と呼ぶことにします。

  つまり我々はディズニー・パークにいるときに、

《ディズニー・パークの風景》 ⇔《モノガタリTV映像》 ⇔《自分の心》

という形で、ディズニー・パークを楽しんでいるのです。


「モノガタリTV」は、ディズニー・パークの中に居ると画像が安定し、それを見ている僕たちの「心」も落ち着いてきます。------そのとき僕たちは無意識に「ディズニーのモノガタリTV」で世界を見ているのです。だからこそ、パーク内のすべての風景は「ディズニーのモノガタリ」の光を宿して輝くのです。パークの内側にいると、空気さえ柔らかく僕たちの身体を包んでくれるような気がするのは、そういう理由なのです。


 では、ディズニー・パークの外、つまり日常生活の中ではどうでしょうか。

 実は普通の日常にも「モノガタリTV」はあって、

《日常の風景》 ⇔《モノガタリTV映像》 ⇔《自分の心》

という形には変わりはないのです。でも、パークの外では「モノガタリTV」はすごく不安定です。そこには雑多な「物語」が雑多なまま映っています。当然かも知れません。街を歩けば行きかう人々は知らない人ばかりですし、車に注意しておかないと、ぶつかってしまうかも知れません。ディズニー・パークのように、のんびりと「モノガタリ」の映像に浸ってはいられないのです。

 それでも人はできれば「物語」の映像を見続けていたいのです。電車に乗っていると、ひどい混雑のとき以外は、ほぼみんなスマホを見て居たり読書したりしています。これは人々が基本的には自分の作り出している「モノガタリ」の中に居たいと感じている証拠です。

なぜ人々がそんなにも「モノガタリ」の映像にこだわるのか、それは「モノガタリTV」で世界を見ていることが「幸福」だからです。


《日常の風景》 ⇔《モノガタリTV映像》 ⇔《自分の心》

という関係は、僕たちが「世界」をどう捉えながら日常を過ごしているか、ということも示しています。僕たちは五感から入って来る情報を、そのまま受け取るのではなく、相互に関連した「モノガタリ」の連環としてまとめ、それを見ながら、日常を過ごしているのです。


②  物語の具体例と物語の次元


 今度は視点を変えて、一般の「物語」とはどういうものかを見てみましょう。例として「うらしまたろう」という古い話を挙げてみます。

「浦島太郎」を、要素に分けると、こんな風になります。


〈始まり〉----浦島太郎は海辺でカメを助けた。

〈経過1〉----カメは助けられたお礼に、浦島太郎を海の底にある竜宮城に招いた。そこには美しい乙姫様が居た。

〈経過2〉----竜宮城で乙姫様から連日、豪華な饗応を受けた。

〈経過3〉----郷里に残した老いた母の事も気になり、竜宮城を去ることにした。帰り際に乙姫様から「決して開けてはいけない」と念を押されつつ、玉手箱を渡された。

〈おわり〉----カメに連れられて郷里に戻ると、知らない人ばかりだった。寂しさから仕方なく玉手箱を開けると、白い煙が吹き出して浦島太郎は一瞬にして白髪の老人になった。


 この浦島太郎の例でも分かる通り、「物語」は、「始まり」と「経過」と「おわり」のある、まとまったデータと言えると思います。あなたの知っている「物語」のいくつかを思い出してみて下さい。

ではこのデータは何次元でしょうか。──突然数学っぽくなって恐縮ですが──「始まり」も「おわり」も空間以上の次元を持っているので「三次元以上」ですが、これが時間による「経過」を含むので、全体としては「四次元以上」のデータと考えられます。つまり僕たちは常に「物語」という四次元以上の情報を持つものと関わり続けているわけです。


ここで、第二部の終わり近くで示した表を引用してみます。

世界 ⇔ 生活テレビ映像 ⇔ 自分の心

一応、次元も示して置きますが、「世界」は三次元以上、「生活テレビ映像」は四次元以上、「自分の心」は五次元以上です。(詳細は第一、二節をお読み下さい)

 一方、この節ではこんな表を示しました。

  《日常の風景》 ⇔《モノガタリTV映像》 ⇔《自分の心》

これについても次元を示せば、「日常の風景」は三次元以上、「物語テレビ映像」は四次元以上です。また、第一、二部を読まれれば分かると思いますが「自分の心」は五次元以上にあります。

 次元などを考えれば、一見、この二つの表は同じように見えますが、真ん中の項が違います。「生活テレビ映像」には意志はなく、ただ見えている、もしくはみなしている映像なのですが、「物語テレビ映像」には、《自分の心》が深く影響しています。つまり、「どう世界を眺めるか」という受け身な見方ではなく、「世界をどう眺めたいのか」という、心の意志が直接関わっているのです。




①   二種類の「モノガタリ


それでは「ディズニー的な魔法の眼」を念頭に、「心」について「物語」を手がかりに、さらに考えていきましょう。


「モノガタリ」には大きく分けて二種類あります。

 一つには、ディズニーのモノガタリのような普通の「モノガタリ」です。ゲームとかアニメ、小説なども含みます。

 もう一つは「その人自身のモノガタリ」です。これは、現在進行している未完のモノガタリ、と言えるものです。混乱しやすいのでこちらを「ナラティヴ」と呼ぶことにします。ナラティヴは「ナレーション」や「ナレーター」と同じ語源の英語で「語られていくモノガタリ」を意味する言葉です。

個々の人の「心」に深く関わっているのは、普通の「モノガタリ」よりむしろこの「ナラティヴ」でしょう。「ナラティヴ」つまり「個人の生きている物語」は、その人の「心」とは違いますが、その人個人の「心」にぴったり寄り添っているものだと言えるでしょう。もちろん「心」自体について、僕たちは知ることができません。けれど「ナラティヴ」なら判別できます。もちろん完全とは言えないですが。

 ナラティヴを軸にして考えれば、いろんなものが分かってきます。たとえば「自由」です。「自由」というのは自分が自分のナラティヴを設計し、そしてそれに沿って自らの生を紡いでいく、そのことを言います。

 ナラティヴの中には膨大な情報が詰まっています。過去の経験、過去に接した物語、日々感じているモノガタリ、親や知り合いのナラティヴ、などが互いに影響しあって、個人のナラティヴを作り上げています。

 

 自分のナラティヴを意識できるようになれば、他の人のナラティヴも意識の中に入って来るでしょう。それが人間と人間の関わりの基本となるべきものです。(そのとき相手のナラティヴをリスペクトできれば、素晴らしい友人になれるかも知れません)


②「ナラティヴ」と「心」  


 では、そのナラティヴを軸にして、「心」についてもう少し考えてみましょう。

以前に並べて挙げた構成表を思い出して下さい。日常の風景を「世界」に言い換えておきました。

《世界》 ⇔《モノガタリTV》 ⇔《自分の心》

この中で、「物語テレビ」は自分のナラティヴを意識している時は、「モノガタリ」が「ナラティヴ」に特化しているので、「ナラティヴ・テレビ」と言い換えることができます。そして「心」は「ナラティヴ」を持っていますので、これらをまとめると、こうなります。

《世界》 ⇔《ナラティヴTV》 ⇔《ナラティヴを持つ心》

 こう書き換えたことで三つのことが分かります。

(ただし、僕たちはナラティヴを意識し続けることはあまりありません。だから通常の状態では、むしろ《世界》 ⇔《モノガタリTV》 ⇔《自分の心》と解釈しておく方がいいでしょう)

 

 最初の一つは、「心って、こんなふうに存在するんだ」ということです。

 次に分かるのは、「心」が「ナラティヴ」のすぐそばにいることです。「心」と「ナラティヴ」は同じものではないですがその人の「ナラティヴ」からその人の「心」をある程度認識することはできるでしょう。

最後に分かるのは、「心」が意志や方向性を持った存在だということです。繰り返しになりますが、「心」はナラティヴのすぐそばにいて、ナラティヴから深く影響されます。そしてナラティヴには意志や方向性があります。つまり「心」は常に「何かをしよう」とする、未来に対して意欲を持っている存在なのです。

 では「ディズニー的な魔法の眼」をイメージしながら、さらに、このようなナラティヴの性質を考えていこうと思います。

まず、ナラティヴは変容していくものです。つまり、モットーとか信念などとは違い、状況の変化や実際に起こった事、新しく知った「物語」などによって、どんどん変わっていきます。これが普通の「モノガタリ」との一番大きな違いです。この変化を良い方向に捉えれば、「ナラティヴ」は成長していくものだと言ってもいいでしょう。よりよいものに、そしてより幸福になりやすいものに。

 さらに言えばナラティヴは二重性を持っています。一つには一応完結した「目標としてのナラティヴ」であり、もう一つは常に完結していない「現実のナラティヴ」です。例えば、アイドルになりたいという少年が居るとします。この少年の「目標としてのナラティヴ」は「アイドルのオーディションに合格⇒そこで努力を重ねる⇒アイドルとしてデビューする⇒多くの人から賞賛を受ける⇒富を蓄え幸福な人生を送る」などと言うものだと思われます。けれど「現実のナラティヴ」は「オーディションに合格⇒まさに今努力している」というところにとどまっているかも知れません。つまり「目標のナラティヴ」は人生という旅の「地図」であり、「現実のナラティヴ」は実際の旅行です。

 もう一つ加えれば、ナラティヴは人と人が関わるときの最大の要因になります。ある人に恋人ができたとして、その恋人と言う関係を保つのに、ナラティヴは極めて重要なものになります。相手のナラティヴと自分のナラティヴを重ねて、新しいナラティヴを紡げる時、二人は本物の恋人になれるのだと僕は思います。

 最後に、ナラティヴに──この場合は「目標のナラティヴ」です──善いものと悪いものがあることを言っておきたいと思います。この識別は原理自体は簡単です。「悪いナラティヴは他者のナラティヴを傷つける」というものです。

(もちろん事態はそんなに簡単ではありません。例えばA君という少年がこんなナラティヴを持っていたとしましょう。「僕はBさんが好きだ⇒Bさんと恋人になる⇒Bさんにプロポーズする⇒Bさんと結婚する⇒幸福になる」------けれどもしも別のC君と言う少年がBさんが好きだったり、BさんがA君を大嫌いだったりしたら、このA君のナラティヴは、悪いナラティヴかもしれないのです。このナラティヴの善悪の問題は、いずれ別稿で述べたいと思っています)


③  「ディズニー的な魔法の眼」を獲得して「ナラティヴ」を育てよう


 「ディズニー的な魔法の眼」とは、「物語」や「ナラティヴ」について深い洞察力を持つ眼です。それを獲得するためには、──ディズニーと関わらない場合は──まず「物語」に多く触れて、「物語」の意味を感じることです。そのうえで、自分自身のナラティヴを含めた様々なナラティヴについて、自分なりに考察していくことです。──なお、「近代合理主義」的な考え方を持っている人は、この際、きっぱりとその考え方を切り捨てましょう。──そうすれば、「ディズニー的な魔法の眼」は獲得できます。


④   ナラティヴの時代に


ここで、念を押すために、第二節の終わりに掲げた表をまた示します。こんなものでした。(詳しくは第一、二節をお読みください)

世界 ⇔ 生活テレビ映像 ⇔ 自分の心

これと、先ほど出て来た表を比べて見ます。

《世界》 ⇔《ナラティヴTV》 ⇔《ナラティヴを持つ心》

 この二つはそっくりですけれど、意味が違います。

 ナラティヴには「こう生きて行きたい」という強い意志があるからです。


 では、「近代合理主義」が否定され、「近代」が終わり、ナラティヴ中心の世界になると、何がどう変わるのでしょうか。(もちろん僕はそうなって欲しいと思っています)

「人間はなぜ生きているのか」「自分はどう生きて行ったらいいのか」「人を傷つけてまで生きる意味があるのか」「自分はどこからきてどこに行くのか」などのことを、自分自身の判断で決めていける、そういう時代に変わるのです。


 ナラティヴ中心の時代になれば、学校も企業も社会も国家も世界も、根本的に変わっていくでしょう。何より重要視されるようになるのは、芸術の分野だと思います。芸術は「心」に直接関わることですから。

 変化は普通、恐ろしいものです。けれどこの場合は、恐れる必要は全くありません。なぜならその変化は、個々のナラティヴを最大限に尊重するような変化だからです。

 


終節 ナラティヴ革命を経て、新生代へ 


 今、世界は「近代」という時代の最終ページに居ます。もし、そのページをめくれずに「近代」にとどまってしまえば、遠からず世界は滅亡することになるでしょう。

そのページをめくるためには人々の意識の大変革が必要です。そして、その変革を成し遂げられるかどうかに、人類の存亡がかかっています。

 この話の中で、僕は「古い魔法の眼」と「ディズニー的な魔法の眼」を用いて、「ナラティヴ中心の世界」が来るべき新しい世界のありかたであることを示しました。しかしこのまま、「近代」という暗黒の時代を変えようとしなければ、決してそのような「ナラティヴの時代」はやって来ません。


 求められるのは「ナラティヴ革命」とでも呼べるような、世界的な存在意識の変革です。そしてこの革命を実現するものこそ、「ナラティヴの力」です。

「ナラティヴの力」を結集して、「ナラティヴ革命」を遂行し、「近代」の最終ページをめくって、全く新しい時代を実現しなければなりません。


その新しい時代を、僕は希望を込めて『新生代』と呼びたいと思います。


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