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更新日:7月21日



・・・・・・明日へのモノガタリ11-20/18は欠

 

明日へのモノガタリ(11): 不安

 

四月病、五月病、と言われる「漠然とした不安」から来る、

心の病いが結構蔓延しているようです。

まあ、このエリアにお越しいただいている方の多くはディズニ

ファンだと思うので、「そりゃディズニーに行けばいいさ」と、

考えるかも知れません。

 

確かにそうです。でも、「根っからのディズニー・ファン」

ではない人は、この漠然とした不安を、どうやって解消したら

いいのでしょうか。

 

「漠然とした不安」を痛いほど感じて、自殺してしまった作家がいます。

芥川龍之介です。

芥川は、日本の『近代』をある意味象徴する作家です。

一時期彼は、日本の「物語」の系譜の中央にいました。

現在も「芥川賞」として、多くの小説家の登竜門となる賞に

その名前を残しています。

 

芥川だけでなく、多くの文学者が、自ら生を閉じています。

有島武郎、太宰治、原民喜、三島由紀夫、川端康成。

それは結局、「近代」という時代の「生き苦しさ」を示して

いるものだと思います。

 

しかし今や、「近代」は、終わろうとしているのです。

僕たちには、二つの選択肢しかありません。

「近代」と運命をともにして、滅びていくのか、

「近代」を乗り越えて「新生代」を迎えるのか。

 

そう、気付けば四月病・五月病などと、沈殿している

暇はないようです。

一刻も早く「近代」の垢を落として、

(具体的には、ディズニーに行って、モノガタリの

ミストサウナを浴びたりして)

新しい時代に向かって歩き出す必要があるでしょう。

 

 

明日へのモノガタリ(12): ディズニーとお金

 

神社に初詣にでかける。これは合理的な行動ではありません。

ディズニー・パークに行く。これも合理的な行動ではありません。

ゲームを熱中してやる。これも合理的な行動ではありません。

 

合理性に縛られていることは、その人の持つモノガタリが、

目に見えない規制に取り込まれていることなのだと思います。

『合理性』と言うのはは、少なくとも表面的には、金銭的価値を

絶対的指標として取り扱うという、単純な原理を持っています。

 

ある人がディズニーに行って丸一日楽しむとします。

どんなに節約しても、交通費以外で12000円ほどは

かかってしまいます。

もちろん、ディズニーに行かず、一日家に居て、

テレビでも見てのんびりしている方が、

『合理的』だと言えるでしょう。

 

当然ですが、孔子も『恒産なくして恒心なし』と言ったように、

お金がないと精神的にも非常に不安定になります。

けれど、お金はどこまで行って

も『道具』に過ぎないものです。

 

ところが、その、道具に過ぎないはずの「お金」が、

いつの間にか唯一の『価値』になってしまっています。

産業革命が興って以来、幸福=お金があること、という歪んだ

世界観が広がり、社会全体が『お金』だけを共通の価値として

動くようになってしまっています。

 

なぜ懸命に勉強するのか。

その答えの一つが「いい学校に行き、いい会社に入ってお金を稼ぐ」

というものです。つまりはお金のために懸命に勉強するという

図式になるわけです。

でもそんな勉強が面白いわけはないし、偏差値の高いヤツは

エライヤツなんだという、歪んだ「常識」を身につけてしまい

かねません。

 

もちろん間違っているのは「合理性」の方です。

お金は今の所、道具として便利だし大事なものでも

ありますが、それは実は『価値』としては無意味なのです。

 

 

 

明日へのモノガタリ(13): 企業

 

今、何が変わろうとしているのか、お気づきでしょうか。

テレビ・コマーシャルなどを見ていると、分かるかも知れません。

変わろうとしているのは「企業」です。

企業の存在意義自体が変化しているのです。

 

企業は基本的に営利だけを目標として来ました。

制度的に、株式会社はその活動を『営利』のために

行っています。

企業は株式を発行して、それを企業運営の資金とします。

それと同時に企業は、株主に利益を還元する義務を生じます。

これが『配当』と呼ばれるもので、これが減ると株の値段が゜下がり、

企業の経営は傾いていきます。

 

ここ200年ほどは、世界はこのような『企業』のシステムで

動いて来ました。けれど今、『企業』は変わろうとしています。

 

『経営理念』なんていうコトバをよく耳にすると思います。

そうです、「お金を稼ぐ」という単純なことでは、

もう『企業』自体がやっていけなくなっているのです。

 

今、伸びている企業は、簡明に言えば、

「すぐれたモノガタリを持ち、それを経営に生かしている企業」

だと言えるでしょう。

逆に、お金儲け以外にはっきりしたモノガタリを持たない

企業は、社会的に見捨てられていくでしょう。

 

つまり『モノガタリ』についてのセンスがない企業は、

今後の存立も怪しくなってくると考えられます。

 

 

 

明日へのモノガタリ(14): ウィッシュ

 

「ウィッシュ」を見ました。

ウォルト・ディズニーのスタジオができて100年、

これからのディズニーが何をやっていこうか、

その決意表明のような映画でした。

 

「ウィッシュ=願い」とは、要するに一人一人が持つ「良きモノガタリ」

の核となるものだと言えます。

ウォルト・ディズニーは多くの功績を残していますが、

やはり最大のものは、「モノガタリの解放」だと思います。

 

ディズニーの100年を記念した作品「ウィッシュ」は、

その「モノガタリの解放」の遺志を継いで、

これからの世界でどんなふうに人々の「願い」と

向かい合っていくのか、を表明した作品になっていました。

 

僕の読み取ったところでは、これまでディズニーが展開してきた

「夢の世界」であるディズニー・パークを維持しつつ、

人々(もしくは、もっと広く生命たち)には、もっともっと

モノガタリを広げて行って欲しい、もっと大きく生きて欲しい、

そういう願いを持っている、・・・という感じです。

 

「願い」は、つまりモノガタリの核は、僕たち一人一人が

自ら保持し、自ら切り開いていけないのです。

もちろん、疲れたら、ディズニー・パークに行って、

モノガタリを修復し、新たな勇気を貰えばいいのです。

 

 

 

明日へのモノガタリ(15): 新エリア

 

僕の知っている、あるディズニー・ファンは、ディズニーの

新しいエリア、ファンタジア・スプリングスには、そんなに

興味がなさそうです。彼は『トイストーリー』の熱狂的な

ファンで、新しくエリアができれば、トイストーリーのアトラクション

の列が減りそうだと、むしろそのことを喜んでいました。

 

当たり前ですが、ディズニーにはいろんな人が来られます。

海派、陸派、ショーパレ派、ヴィランズ派・・・・・・そう、

共通しているのは『ディズニーを楽しみたい』という、この一点

だけなのです。

それと、大事な事ですが、これらの人々は決して衝突しません。

それぞれの人がそれぞれの人のモノガタリを尊重しているのです。

 

基本的にモノガタリには優劣はありません。

『熊のプーさん』が好きな人に、『いや、やっぱりヘラクレスの方が

レベルが高いよ』なんて言ってくる人はいませんし、

ショーパレ派の人に『エレクトリカル・パレードをパスすれば

ビッグ・サンダー・マウンテンは並ばなくても乗れるよ』

なんていう人もいないのです。

 

ただ残念なのは、ディズニーのビギナーの方で、

「もう、人ばかりで、ただ並んでいるだけで時間が過ぎて疲れた」

と、ディズニーを嫌いになってしまう人が少なからずいることです。

それは特に、限られた時間に少しでも多くのアトラクションに

乗りたいなという気持ちを持った人に多いようです。

 

僕は最初にディズニーランドに行ったとき、「ピノキオ」だけしか

乗りませんでした。まあ、テーマパーク自体にあまり興味がなかった

せいもあるかも知れません。

ディズニーを好きになったのは、やはり『笑顔』です。ゲストやキャストさん

たちの自然な笑顔を見ているうちに、ディズニーに居ることが

たまらなく嬉しいことだと気が付いたのです。

 

ある日、レストランで、家族連れに席を譲って、お礼を言われたとき、

思わず「楽しい一日をお過ごしください」

なんて、偉そうに言ってしまいました。

でも家族の人たちに、一斉に「はい、ありがとうございます」

と、重ねてお礼を言ってもらい、ちょっとほっとしました。

 

ディズニーでの基本のマナーは、「相手の楽しみ方を束縛しないこと」

だと僕は思っています。席を譲るのは、微妙にお節介だったかも

知れません。まあ、気遣いなくでてしまったので仕方ないですが。

あっ、ところで僕は新エリア、ものすごく楽しみにしています。

 

 

 

明日へのモノガタリ(16): 追悼

 

ウォルト・ディズニーの晩年に音楽を担当した作曲家、シャーマン兄弟の、

弟、リチャード・シャーマンさんが昨日、5月25日に亡くなったそうです。

享年95歳。心からお悔やみ申し上げます。

 

兄弟の兄の方は、ロバート・シャーマンさん。12年ほど前になくなっています。

『中の悪い兄弟』としても有名で、ディズニー関係以外では一緒に仕事を

することは愚か、口を利くことさえなかったと言います。

けれど、そんな仲の悪さが、妥協なく、よりよい曲を作る原動力になったのか、

ディズニーでの仕事は、どれも素晴らしいものでした。

 

日本では、イッツ・ア・スモールワールドのテーマ曲、「小さな世界」が

一番有名かも知れません。単純素朴な平和への祈りが込められた

子供たちへの賛歌です。

 

アカデミー賞の音楽賞と主題歌賞の両方を取った「メリー・ボピンズ」

は、シャーマン兄弟の最高傑作と言ってもいいかも知れません。

この中の曲の「2ペンスを鳩に」は、生前のウォルト・ディズニーが

心の慰みにしていた曲らしいです。

(僕も同じです。この演奏を聴いて、癒されています⇒

 

ウォルト・ディズニーは、音楽を極めて重要視した人だったと

言われています。音楽が主役の「ファンタジア」という映画まで

創ってしまったぐらいです。

 

ともあれディズニーの音楽の一時代を築いた、リチャード・シャーマンさんに

心からの感謝と追悼の意を捧げたいと思います。

 

 

明日へのモノガタリ(17): 死刑廃止

 

「死刑執行」が一時トレンドになっていましたが、

僕は「モノガタリ尊重」の立場から、

死刑については、廃止するべきだと思っています。

『死によってすべてが終わる』と考えている人にとって、

死刑は権力によるモノガタリ全部の抹殺だからです。

 

僕は「死」によってすべてのモノガタリが終わるとは

考えてはいません。

ディズニー映画の『リメンバーミー』を見れば、

モノガタリの中では、死を越えてなお続くものが

あることが分かると思います。

 

その昔、ソクラテスは若者たちを扇動したとして、死刑の

評決を受け、逃げるという選択も可能だったのにも関わらず、

「私は法に従う」と、毒杯を飲み干したそうです。

ソクラテスが死刑を甘んじて受けたことで、後世の我々は

権力というもの、人間というものについて、非常に多くのことを

学べたのです。

 

それでももちろん、死刑はやはり廃止するべきでしょう。

死がモノガタリの終わりではないにしろ、大きな『終止符』

ではあるからです。

 

 

 

明日へのモノガタリ(19): ナラティヴの行方

 

ナラティヴとは、個々の生命や、生命の集団がそれぞれに持つ、

モノガタリのことです。

ディズニー・ファンになら、きっとこう言えば通じると思います。

「ナラティヴって要するに『心のコンパス』なんです」

 

でも、ディズニーに詳しくない人には、何を言っているのか

わけがわからないと思いますので、少しだけ説明します。

『心のコンパス』というのは、ディズニー・シーのアラビアン・コースト

にあるアトラクション、「シンドバット、ストーリーブック」の中で

ずっと歌い続けられている、「コンパス・オブ・ユア・ハート」という

歌に由来するものです。

 

冒険に出たシンドバットは、さまざまな苦難に遭遇し、そのたびに

『心のコンパス』を信じて行動していきます。歌はこんなふうです。

「人生は冒険だ、地図はないけれど、宝物さがそう、

信じてコンパス・オブ・ユア・ハート」

 

コンパス・オブ・ユア・ハート、つまり心の羅針盤(コンパス)だけ

を頼りに、シンドバットは冒険を続けていきます。

 

ナラティヴとは、こういう「心のコンパス」のようなものです。

シンドバットではないですけれど、僕たちは人生という荒海を

冒険して進んで行く存在です。しっかりした「心のコンパス」

がなければ、『楽しい』冒険なんて、できるわけありません。

 

とすれば、僕たちには大事なことが二つあります。

一つは、冒険を恐れず進んで行く気持ちを持つこと。もう一つは、

しっかりした「心のコンパス=ナラティヴ」を見出すことです。

 

自分のナラティヴをどうやって見出していくか、それこそが、

『学習』の最大のテーマなのだと、僕は思っています。

 

 

 

明日へのモノガタリ(20): ナラティヴのパワー

 

ナラティヴ(個のモノガタリ)には、歴史を変えるパワーがあります。

世界初の長編アニメ映画「白雪姫」は、モノガタリの歴史を変えました。

そしてそれは時間を経て、多くのナラティヴにパワーを与えたのです。

 

ナラティヴのパワーとは、

「より自分らしくありたい」「より人間らしくありたい」

ひいては「より生命らしくありたい」という願望に結びついたものです。

 

「近代」という時代は、簡明に言えば

「他者のナラティヴを括弧に入れてしまう」時代です。

つまり、他の人の心をとりあえず無視して、自分のことだけを

中心に考える、そういう時代です。

そして、自分のことだけを考えるから「お金」が重要になってしまいます。

AとB、二人の人が居るとして、Aさんが優しくてBさんが

お金もうけをさせてくれるなら、Bさんの方が重要だ、というのが、

「近代」という時代なのです。

 

ナラティヴのパワーは、そういう「近代」の無機的(非生命的)な

ありかたを打ち破り、新しい時代、「新生代」へと歴史を変える、

そういう力を持っています。

 

ナラティヴのパワーは、ナラティヴを傷つけるナラティヴを

憎悪します。他者のナラティヴを傷つけるナラティヴは、

『悪いナラティヴ』だからです。

 

ディズニーの作品が善意に満ちているのは、だから当然でもあり、

また、とてつもなく貴重なことなのです。

ディズニーはモノガタリを解放しただけでなく、ナラティヴの

根本的な大切さを、我々に伝え続けています。

 

「ディズニーのハッピーエンド」について、時には批判をする人も

います。けれどそれは全く的外れです。

ナラティヴは、一般のモノガタリによって喚起されます。

つまりナラティヴの解放者としてのディズニーは、

「良いモノガタリ」によって「善いナラティヴ」を喚起してこそ、

存在価値があるからです。

 

まあ、とりあえず面倒な話はやめておいて、

『ファンタジー・スプリングス』を心から楽しみましょう。

そうすれば自然と、各々のナラティヴにパワーが

備わって来るでしょう。

 


・・・・・・明日へのモノガタリ1-10・・・・・・・・


明日へのモノガタリ(10): ミッキーの魔法 - 野中

2024/04/23 (Tue) 22:08:46

 

ディズニー・パークは『本来の自分自身で居られる場所』

です。だから楽しいのだと思います。

では『本来の自分自身』とはどんなものでしょう。

僕は、人間の本来は『魔法使い』ではないかと思います。

 

人間の使う魔法で最強のものは、「笑いかけ」です。

僕は前に、ふと、「なぜ人は『笑顔』なんてものを大事に思うん

だろう。顔の一部の筋肉が、少しだけ緩むことが、そんなに大

切なのだろうか」なんて思ったことがあります。

 

でも僕は間違っていました。「笑いかけ」は、その相手に対する

最強の魔法です。

これまでに僕は何人も親しい人を亡くしましたが、

それらの人たちを思い出すとき、みんな鮮やかに笑っているのです。

彼らによってかけられた魔法が、いまだに残っているのです。

 

『魔法の王国』、ディズニー・パークでは、みんな笑っています。

ミッキー、ミニー、チップ、デール、ドナルド、デイジー・・・・・・そして、

あのフック船長や、ガストンさえも笑っています。

「笑いかけ」の魔法がいかに強力か、分かっていただけると思います。

 

「笑いかけ」の魔法は、やってみると分かりますが、すごく

難しいです。ことにオトナになってからは大変です。

「笑いかけ」の魔法には、こういう内容が必要です。

「わたしはあなたのモノガタリをわたしなりに理解している。

その上でわたしはこうして素朴にあなたが好きだと表明している」

 

もちろん、あなたがまだ幼児なら、この魔法を使うのは、

難しくはないでしょうし、相手が幼児なら、案外うまく

使えるのかも知れません。

 

魔法を使う時、一番大切なのは『確信』です。

ピーターパンを思い出して下さい。子供たちは、『飛べる』

という『確信』があったからこそ、空を飛べたのです。

 

ティンカーベルの金色の粉は、

その『確信』を映像で示したものなのです。

 

 

明日へのモノガタリ(9): ジンクス - 野中

2024/04/20 (Sat) 16:35:32

 

ディズニー・パークの有名なジンクスに、

「カップルでディズニーに行くと別れる」というのがありますが、

僕の個人的な経験から言うと、これは大嘘です。

僕の知ってる数少ない例では、

うまく行ったカップル3組、ダメだったカップル1組です。

 

ダメだったカップルは、元々双方に彼氏・彼女がいたようで、

それを除外すれば何と打率10割です。

たった3例とは言え、これは無視できない結果では

ないかと思います。

 

うまく行ったカップルのうちの1組は、ディズニーランド

で『お見合い』をしたそうです。

知り合いの彼(僕の知り合いは彼のほうだったのです)は、

「一緒にランドを回るうちに、じわじわと、彼女の『良さ』が

染みわたるみたいに伝わってきた」と言っていました。

 

ディズニーのモノガタリは人を幸福な気分にします。

その中を二人で歩いて、仲良くならない方が変でしょう。

ディズニー・ホテルで結婚式を挙げるのが夢、という

人が多いのもうなづけます。

 

 

明日へのモノガタリ(8): ノーブラ - 野中

2024/04/19 (Fri) 09:49:43

 

何だか「ノーブラ」がトレンドに挙がっています。

僕は素朴に『ノーブラもノーブル(高潔)』と思っています。

女はこんな服装で、男はこんな服装で、という縛りは、

人を不幸にすると思います。

 

服飾や化粧は、その人のモノガタリの反映であるべき

なのですが、今の時代はまだ『近代』を抜け切っていないせいか、

「服を着せられ、化粧させられている」人が多すぎる

ように感じています。

 

外見がどんなに良くても、その人のナラティヴ(個のモノガタリ)

が貧弱なら、魅力は感じられません。つまり、「服を着せられ、

化粧させられている」人には、魅力がないと僕は思います。

 

ディズニー・パークで、ミッキーやミニーのグッズを

付けている人がよく居ます。とても感じのいいものです。

ディズニーのモノガタリを楽しもうという気持ちが、

そのまま形になっていて、親しみが持てるからです。

 

『ノーブラもノーブル』、と僕が感じるのは、その姿が

「いろっぽい」とかいうのでは決してありません。

それが、『解放感を表現したい』、というモノガタリを

反映していると思うからです。

 

 

明日へのモノガタリ(7): ミッキーの存在 - 野中

2024/04/16 (Tue) 08:35:16

 

ミッキーマウスは存在します。

(たとえ科学的にありえないとしても)

だって、ミッキーが存在することで、

人々が「幸福」になれるからです。

 

オトナたちが、こう言います。

「ねえ、ちゃんと『現実』を見なさい」

その『現実』の中にミッキーのモノガタリは

含まれていません。

つまりオトナたちが間違っているのです。

 

ビック・バン・ビートで、タップダンスを踊る

ミッキーの姿に、涙をこらえきれないのは

ミッキーのモノガタリに深く共感しているからです。

 

世界の見方には二つの方法があります。

合理的な見方と、モノガタリ的な見方です。

合理的な見方とは、風景の中の『心』の要素を、

1つ1つ、排除していく見方です。

モノガタリ的な見方とは、風景の中の『心』の要素を、

1つ1つ、拾い上げていく見方です。

 

僕は合理的な見方には、人間の未来はないと思います。

だって、ミッキーのいない世界なんて、

ほんとに不幸ですから。

 

 

明日へのモノガタリ(6): ユカタン - 野中

2024/04/12 (Fri) 08:38:35

 

個人的な話ですが、僕はディズニーの食べ物の中で、

一番好きな食べ物は、ディズニー・シーの、

ユカタン・ソーセージドッグです。

頬張ってロストリバーデルタを歩くと、気分は探検家です。

 

なぜ好きかと言うと、大好きだった若い知人が、

「おれさ、あれが一番うまいって思うんだよね」と

言っていたからです。

 

前は、餃子ドッグがお気に入りで、安かったころは

(ずっと1個290円でした)、一気に3個食べたり

したものです。けれど、何だか値段が上がったり

(記憶では1個600円にまでなったと思います)

売り場が変わったりして、今ではあまり興味が持てなく

なってしまいました。

 

ユカタン・ソーセージドッグも、人気が上がりすぎると

同じように値段とか上がってしまうんでしょうか。

ちょっと心配です。

 

足繁くパークに通う、ヘビーリピーターに取って、

食べ物の値段には気を使います。

カスバフードコートとカントリーベアレストランの

二つのカレー屋は、(今のところ)1000円でおつりが

来る値段ですし、マイルドでとてもおいしいので、

本当に助かります。僕はカレーはあまり好きでは

なかったのですが、パークでカレーを食べているうちに

大好きになりました。

 

そう言えばディズニーランドが日本でオープンしたころ、

『食べ物持ち込み禁止』で、結構話題になっていたみたいです。

それと同時に、シンデレラ城の前にシートを広げ、

焼き鳥とおにぎり、ビールで、宴会を始めてしまった、

豪快な団体さん(もちろん宴会はキャストさんに中止させられました)

も、そのころは居たようです。

 

いずれにせよ、パークの食べ物のおいしさは、パークのモノガタリ

あってこそのものだと思います。つまりパークで食べる物には、

「パークのモノガタリ」という特別な調味料がかかっているのです。

 

 

明日へのモノガタリ(5):カンニング - 野中

2024/04/10 (Wed) 02:19:04

 

カンニングして人格否定された生徒が、

自殺してしまうと言う事件が起きました。

亡くなった生徒のモノガタリを想う時、

そのあまりの悲惨さに心が痛くなりました。

 

生徒は、所属する学校を取り巻くモノガタリを

信頼し、そこで何とか居場所を見つけようと

していたはずです。そうでなければ最初から

テストを受けることすらしなかったでしょう。

 

生徒はそのモノガタリの中に居たいために、

行動したのです。

ところが生徒にとって、そのモノガタリを担う教師から、

人格的に否定されてしまった。つまり、生徒が呼吸し、

生息し、日々を支えてくれていたモノガタリから、

排除されてしまったのです。

生徒のモノガタリは、完全に破壊されてしまったのです。

 

僕は、教育機関の役割は、生徒自身が自らのモノガタリを

豊かにしていくのを援ける、ことだと思っています。

 

当たり前の事ですが、教育の主人公は一人一人の

生徒の方です。教師は、生徒たちが伸びていくのを

援助することしかできないはずです。

 

亡くなられた生徒さんは、本当に悲しかったと思います。

心から生徒さんの魂の安寧を祈らせていただきます。

 

 

明日へのモノガタリ(4): 新DL - 野中

2024/04/09 (Tue) 01:12:40

 

次のディズニーランドはどこがいいでしょう?

ディズニー・ファンなら気になるところです。

日本国内なら、北海道はどうでしょう。

新幹線もできるようですし。

 

北海道は、現在でも魅力ある観光地です。

それにディズニーが加わったら、もう「行くしかない」

っていう感じですね。

 

世界に目を向けると、一番できて欲しいのは、

ニュージーランドですね。

日本に似た国で(ただし人口は25分の1程度)

風光明媚な、美しい国です。世界で最初に、女性参政権が

与えられた国としても有名です。

 

ヨーロッパだと、やはりデンマークですね。

アンデルセンの母国であり、首都コペンハーゲンには

人魚の像があります。

 

アフリカだと、ナイジェリアかなと思います。

人口は2億人を超え、アフリカ最大です。

経済力も南アフリカを超えて、アフリカ経済を引っ張って

います。

 

世界の至る所にディズニーランドが出来て、

「モノガタリ」を広めていって欲しいなと、

思うのは、僕だけではないでしょう。

 

 

明日へのモノガタリ(3):橋 - 野中

 

2024/04/08 (Mon) 03:13:21

 

ディズニー・パークは、誤解されています。

ディズニー・パークは

とてもとても楽しい場所ですが、その楽しさは、

刹那的なものではなく、明日に繋がるものなのです。

 

ディズニー・パークの楽しさは、

いろいろなモノガタリに触れる楽しさです。

その楽しさは、人間が(ひいては生命が)

普遍的に感じる、根源的な楽しさなのです。

 

ディズニー・パークに行った人は、

多様なモノガタリに触れて、「楽しさ」を味わいます。

その経験は、その人自身のモノガタリを豊かにし、

力強く生きて行く糧となります。

 

社会全体として見れば

ディズニー・パークは、人間に「モノガタリ」の大切さを

気付かせてくれる、貴重な場所です。

 

僕は「モノガタリ」こそが、人間の未来にとって

最も大切なものだと考えています。

だから、たくさんのモノガタリで満ちた

ディズニー・パークは、人間にとって、

明日に向かって進む、「橋」のような存在だと思うのです。

 

僕たちはこの橋を渡って、未来へと、向かって行くのです。

 

 

明日へのモノガタリ(2): 解放者 - 野中

2024/04/06 (Sat) 23:59:38

 

ウォルト・ディズニーは、生涯で多くのことをしましたが、

端的に言えば、彼がやったことは、ただ一つです。

それは・・・<<<「モノガタリの解放」>>>

そう、彼は「モノガタリ」たちを現生に解き放ったのです。

 

まずウォルトは、モノガタリたちを呼び集めました。

「不思議の国のアリス」「オズワルド」「ミッキーマウス」

「ドナルドダック」「白雪姫」「バンビ」「ピノキオ」など・・・

ディズニー映画の数々です。

 

そして今度は、それらモノガタリたちと、現実世界との

位相を一気に逆転させることで、モノガタリが生き生きと

乱舞する空間を作り上げました。

それが、ディズニーランドです。

彼は呼び集めたモノガタリたちを、そこで解放しました。

 

1955年にオープンしたディズニーランドが、なぜ

「魔法の王国」と呼ばれたのか。それはモノガタリたちを

地上で解放することに成功したからです。

「動物園」と比較すると分かりやすいでしょう。

動物園には、生きた動物たちがいます。

それと同じで、ディズニーランドには、

生きたモノガタリたちがいるのです。

 

ディズニーランドが出来たことで、人間は変わりました。

モノガタリが解放され、「確実に幸福になれる場所」が、

人間に与えられたのです。

 

 

明日へのモノガタリ(1): すずめの戸締り - 野中

2024/04/06 (Sat) 03:06:37

 

「すずめの戸締り」を見ました。

おだやかな感動が、ひたひたと押し寄せて来ました。

この、『明日へのモノガタリ』の冒頭にふさわしいと

しみじみ思いました。

 

新海誠さんの作品はいつも、風景に対する

細やかな愛情にあふれていて、それだけでも十分に

感心させられますが、この「すずめの戸締り」では、

これまで以上に味わい深い表現になっていて、

それがまたテーマ自体と見事に重なって、

(もちろんこの「テーマ」は、僕が勝手に感じ取ったもので

何を感じるかは人によって違うのでしょうが)何とも

凄みのある作品になっています。

 

このような深い感動を与えていただいたことに

心から感謝したいと思います。

 

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