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  • walker1952

「ナラティヴ」と心

更新日:4月24日

(1)「物語」と「心」 

☆我々が生きて行くうえで欠かせないものは何でしょうか?

☆「お金」と答える人もいるかも知れませんが、まあふつうの人は、「心」と答えるのではないでしょうか。

☆たしかに「心」は、とても大切なのものです。では「心」ってなんでしょうか。そう、そんなに大切なものなのに、見えないし、うまく定義もできないし、まして比較することなど不可能です。

☆「心」は見えません。でも「物語」は違います。見えるし、味わえるし、楽しむことだってできます。そして、「心」と「物語」はすごく近くにあります。

☆とすれば、とても大切で、でもよく分からない「心」について考えるには、「物語」を手掛かりにすればいいのではないか、僕はそんなふうに考えるようになったのです。


(2)「物語」と心の次元  

☆ 「物語」を通じて、「心」について考えてみましょう。

☆ ディズニーの例でも分かる通り、我々の「心」は、「物語」を感じると気持ちが安定し、元気が出て来ます。……それはなぜでしょうか。それは「物語」が生命を感じさせる情報だからです。「心」が生命を感じて元気になるのです。

☆「物語」は、

<<最初の情景→さまざまな変化→終わりの情景>>

というような、変化を含む複雑な情報です。ではこの物語の情報は何次元でしょう。(「次元」なんて面倒なことを、という人もいるでしょうが、まあちょっとお付き合いください)

☆情景は立体的なものですから、三次元の情報です。そしてそれが時間的に変化していくわけですから物語の情報はそれより一つ高い四次元の情報と言えます。

☆ではこの四次元の情報を認識する「心」は何次元の存在なのでしょうか?、なんか数学パズルみたいな感じになってきましたが、この答えは「五次元以上」です。

☆これは少し考えて見ればわかると思います。たとえばテレビの画面のような二次元の平面があるとして、その画面を認識するためにはその画面の外、つまり三次元の場所に居ないといけないのです。(目玉がテレビ画面に貼りついていては、テレビを見ることはできません)、つまりN次元のものを認識するためにはN+1次元の場所に居ないといけないのです。ここから、「心」は五次元以上の場所に居ることが分かります。


(3)「物語」とナラティヴ 

☆ 「物語」には大きく分けて二種類あります。

☆ 一つには、ディズニーの物語のような普通の物語です。ゲームとか小説なんかも含みます。

☆もう一つは「その人自身の物語」もしくは「その集団自体の物語」です。つまり、現在進行している未完の物語です。混乱しやすいのでこちらを「ナラティヴ」と呼ぶことにします。ナラティヴは「ナレーション」や「ナレーター」と同じ語源の英語で「語られていく物語」を意味する言葉です。


(4)「ナラティヴ」と「心」   

☆ナラティヴ(個人の生きている物語)は、その人の「心」とは違いますが、「心」にぴったり寄り添っているものだと言えるでしょう。

☆ナラティヴを軸にして考えれば、いろんなものが分かってきます。たとえば「自由」です。「自由」というのは自分が自分のナラティヴを設計し、そしてそれに沿って自らの生を紡いでいく、そのことを言います。

☆ナラティヴの中には膨大な情報が詰まっています。過去の経験、過去に接した物語、知り合いのナラティヴなどが互いに影響しあって、個人のナラティヴを作り上げています。

☆自分のナラティヴを意識できるようになれば、他の人のナラティヴも意識の中に入って来るでしょう。そのとき相手のナラティヴをリスペクトできれば、素晴らしい友人になれるかも知れません。

☆ナラティヴは「こうあるべき」ことは何もありません。ただし「他者のナラティヴを傷つけるようなナラティヴ」はあえて言えば「悪いナラティヴ」です。

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